思考の海に溺れそうな夜は言葉の力を借りる

こんばんは。

 

時々、頭の中が何の役にも立たないような考えや答えのない問いで満たされ、なかなか寝付けない夜があります。

少し前までは、そういうときはスマホをいじって過ごしてました。

最近は好きな画家の絵をぼーっと眺めたり(笹倉鉄平は時を忘れる)、

言葉にならない想いをなんとなく文字にするようにしました。

このブログもその一環。

 

もともと言葉で思考するタイプではなく、

ましてそれをまとまった形で表に出すことが苦手な人間です。

人に理解してもらえるようなことは書けないと思っていますが、

自分の思考の整理にはある程度役立ちます。

少なくともスマホに脳を毒されているときの自分より健全な気がします。

書きながら「いつも同じようなことで悩んでいるな」と気づいたり、

「あのときの自分は相手のここに腹を立てていたのだな」とか、

普段気にもしていない自分の心の形が少しずつ見えてきます。

 

日中人と交わっていると、どうしても相手目線で物を考えてしまいます。

相手の意図を理解して、相手に何かを伝えようとしますからね。

その点ブログであれば、静かに内省することが出来ます。

ブログには友人相手には書けないようなこと(特に長文の思考の垂れ流し)も書けます。

日記でも基本的に同じことが出来るのでしょうが、キーボードとスクリーンが性に合っています。 

 

そう考えると、文字を使いこなす前の我々の先祖はどのように眠れない夜を過ごしていたのでしょうね。

その時代にはその時代のやり方があったのだとは思いますが、とりあえず文字のある時代に生まれてよかった。

 

そして文字にしても言葉にしても、自分で考えながら使っているようで実は意識的に使っているのはごく一部ではないかと考えます。

言葉は文脈で意味が規定されますし、いま自分がつぶやいている言葉も過去話されてきた日本語の膨大な積み重ねの上に成り立っています。

つまり、自分でひとつひとつ考えながら言葉を紡いでいるわけではないのだと。

日本語の流れ・論理の上に自分の小さな小さな思考を乗せていっているだけに過ぎないのではないかと。

それは自分の思考の限界を感じさせると共に、母なる日本語に包まれた一種の安心感ももたらす気がします。

 

さて、今日は先ほどまでネガティブな気持ちで頭がいっぱいだったのですが

こうして書いているとそういった気持ちは消え去っていきました。

多くの些末な心の悩みというのは、感情や思考が整理されていないことにより引き起こされるのかも知れません。

特に普段自分に無理をさせている人ほどそうかも知れません。

 

とりあえずは、生まれつき意志薄弱な私と違い今日まで一日もサボらずに働き続ける自分の心と体に感謝。

 

 

今夜はここまで。

それではまた。