ウミガメのスープ

こんにちは。

 

昨夜知り合いとウミガメのスープの問題を解いていました。

 

出題者の出すお題に対して、Yes/Noで答えられる質問をしていき

そのお題が示す状況を当ててみるというこのゲーム。

最初は全く捉えどころのないような状況なのですが

少しずつ視点が加わることで徐々に明らかになります。

そして決定的な要素が明かされたときに突如明るく開ける感覚。

あの閃く瞬間が楽しいんですよね。

 

ということで自分でも作ってみました(唐突)。

素人なのでクオリティは保証しません(笑)

では、どうぞ!

 

 

(出題文)

私は小さくか弱い。均整の取れていない体に面(つら)には醜い刻印。
今は孤独な日々を送るが、かつては多くの仲間がいた。
仲間とは言っても私と本当に合う者など一握りだった。
友と呼べる者は彼らだけで、あとはむしろそりが合わない者ばかりだったろうな。
それでも仲間と一緒に過ごしていた頃は私も何か意味とか役割を持っていたのだと思う。
少なくとも、もう一度友たちのいる場所に戻りたいと思う。

あそこが私の居場所だった気がするから。 

 

彼は一体何者だろうか?

 

(解答)※文字反転で表示

ジグソーパズルの欠けたピース

 

んー、なかなか難しいですね。

初めてにしては形になっている気がしますが、

でも人に聞くと色んな穴があるんでしょうね。 

もしお詳しい方がいらっしゃいましたらご指摘下さい。

 

またこうやって問題を作ってみても面白いかも知れません。 

 

 

短いですが本日はここまで。

それではまた。

思考の海に溺れそうな夜は言葉の力を借りる

こんばんは。

 

時々、頭の中が何の役にも立たないような考えや答えのない問いで満たされ、なかなか寝付けない夜があります。

少し前までは、そういうときはスマホをいじって過ごしてました。

最近は好きな画家の絵をぼーっと眺めたり(笹倉鉄平は時を忘れる)、

言葉にならない想いをなんとなく文字にするようにしました。

このブログもその一環。

 

もともと言葉で思考するタイプではなく、

ましてそれをまとまった形で表に出すことが苦手な人間です。

人に理解してもらえるようなことは書けないと思っていますが、

自分の思考の整理にはある程度役立ちます。

少なくともスマホに脳を毒されているときの自分より健全な気がします。

書きながら「いつも同じようなことで悩んでいるな」と気づいたり、

「あのときの自分は相手のここに腹を立てていたのだな」とか、

普段気にもしていない自分の心の形が少しずつ見えてきます。

 

日中人と交わっていると、どうしても相手目線で物を考えてしまいます。

相手の意図を理解して、相手に何かを伝えようとしますからね。

その点ブログであれば、静かに内省することが出来ます。

ブログには友人相手には書けないようなこと(特に長文の思考の垂れ流し)も書けます。

日記でも基本的に同じことが出来るのでしょうが、キーボードとスクリーンが性に合っています。 

 

そう考えると、文字を使いこなす前の我々の先祖はどのように眠れない夜を過ごしていたのでしょうね。

その時代にはその時代のやり方があったのだとは思いますが、とりあえず文字のある時代に生まれてよかった。

 

そして文字にしても言葉にしても、自分で考えながら使っているようで実は意識的に使っているのはごく一部ではないかと考えます。

言葉は文脈で意味が規定されますし、いま自分がつぶやいている言葉も過去話されてきた日本語の膨大な積み重ねの上に成り立っています。

つまり、自分でひとつひとつ考えながら言葉を紡いでいるわけではないのだと。

日本語の流れ・論理の上に自分の小さな小さな思考を乗せていっているだけに過ぎないのではないかと。

それは自分の思考の限界を感じさせると共に、母なる日本語に包まれた一種の安心感ももたらす気がします。

 

さて、今日は先ほどまでネガティブな気持ちで頭がいっぱいだったのですが

こうして書いているとそういった気持ちは消え去っていきました。

多くの些末な心の悩みというのは、感情や思考が整理されていないことにより引き起こされるのかも知れません。

特に普段自分に無理をさせている人ほどそうかも知れません。

 

とりあえずは、生まれつき意志薄弱な私と違い今日まで一日もサボらずに働き続ける自分の心と体に感謝。

 

 

今夜はここまで。

それではまた。

豊かな人生を生きるには?

こんにちは。

お久しぶりです。

近頃は外国語の学習に忙しく、こちらの更新がなかなか出来ずにいました。

 

 

さて、表題の件ですが、

みなさんは「豊かな人生」と聞いてどういったものを思い浮かべますか?

 

お金や物をたくさん持っていること?

自由になる時間があること?

他人より選択肢が多いこと? 

 

これら全ては生きるために大切なものだと思います。

確かにある一面では人生を豊かにしてくれそうです。

ただし、これら全ては簡単に消えてしまう儚いものでしかない気がしています。

 

 

OpenAIのSam Altmanがとあるインタビューで以下のように答えていました。

 

I definitely grew up with Elon as a hero of mine, despite him being a jerk on Twitter, whatever. I'm happy he exists in the world... 

Sam Altman

(quoted from "How Sam Altman's Bromance With Elon Musk Turned Toxic")

 

 

それがこの世界に存在して、そのことがただただ嬉しい。

そう思えるものに出会うことが出来た人は幸運でしょう。

人物、文学や芸術、景色、スポーツ・遊戯、そう思える瞬間そのもの。

暫し時の経過を忘れさせてくれるもの。

 

 

ガンスリンガーガール』15巻

 

 

確かに人は永遠には生きることが出来ませんし、

全てはいつか消え去ってしまうものです。

しかし、「ああ、生きていて良かった」と思えるものに出会えた人生であれば

きっとそれは豊かで意味があったものなのだと思うのです。

その人にとってその瞬間は永遠のものかも知れませんから。 

 

 

今回はここまで。

それではまた。

挑戦は人生

こんにちは。

 

「自分探しより自分試し」という言葉があります。

自分が何者かという曖昧な問いを内に持ち続けるよりも

自分という存在そのものを世の中に問う姿勢の方がより積極的で楽しみも大きい、そういう意味と理解しています。

 

先日読んだ本にこういう一節がありました。

 

汗をかくことが格好悪いかのように感じる日本の若者を、この北朝鮮留学生は「心から同情している」という。

北朝鮮スーパーエリート達から日本人への伝言』(加藤嘉一)

 

これは著者が北京大学に留学している際に出会った北朝鮮留学生の言葉で、

彼は北朝鮮の中ではエリート中のエリートに位置する学生です。 

そもそも生まれ育った環境も違いますし、物の見方や考え方も全く違うはずです。

そういう意味では単純に日本の普通の若者と比較することは出来ません。

しかしそこを差し引いても彼の言葉は響いてくるものがあります。

 

実際、現代の受験では四当五落と言われていた時代よりも、

より少ない時間で合格したことを誇る"省エネ派"が増えているのかも知れません。

その中には地頭の良さをアピールしたい気持ちもあるのかも知れません。

しかし人生は他人のために生きるわけではありません。

自分が自分のために生きるものです。

もしそれが本当に自分の求めていることであれば「時間を惜しむ」という発想自体が消えて行くはずです。 

 

 

アイシールド21』37巻(稲垣理一郎/村田雄介

 

何かに挑戦するときはそれが達成出来るのか、そもそも意味があるのかなどはほとんど分からないものです。

それでも、「ただ登る」ということが出来るのは、それが自分が本当に求めていることだからでしょう。

それが見つかったのならばそれだけでその人は幸福なのかも知れません。

 

今回は以上です。

それではまた。

なぜ勉強をするのか?(初投稿)

こんにちは。

 

今回は掲題の件に関して少し話していきたいと思います。

 

先日アベマでユダヤ人について特集した動画がYoutubeにアップされており

そこで2ch創設者のひろゆきさんが以下の様なコメントをされていました。

 

「頭の中は奪われない」という表現。

「勉強が大事」と受け取られていたが、それより「頭の中以外は奪われる」と

ユダヤの人が思っていることが大事。

それが無いので日本は利権にしがみついて、社長や政治家が息子に継がせようとする。

そうじゃなくて、自分で何とかしろよ、手に入れても無くなるから努力しようみんな思い続けるのが大事。

引用元:ユダヤ人を語るひろゆき

https://abema.tv/video/episode/89-131_s3_p878

 

これは本当に大事な見方で、

一旦こういう視点で世間を眺めてみると

世の中には他者の自由を奪おうとする存在であふれていることが分かります。

それは会社であったり、メディア、無責任な第三者といった風に色々な形をとります。

彼らは余計な価値観を吹き込んだり行動を制限してきようとしますが

全てに共通しているのは

本当に大事な問いには一切答えてくれない

ということです。 

 

彼らが問いに答えないのは心血を注いで確立してきた支配構造を崩されたくないからというのもありますが、

その構造に組み込まれていた時間があまりに長すぎて単に自分自身答えが分からなくなっているからという場合もあります。

だからそういった人たちの何気ない一言や縛りに振り回される必要はないのです。

人生にはもっと大切なことがありますし、もっと大切にしないといけない人たちがいます。 

 

そして、物理的な自由以外に他者に収奪されてはいけない大切なものがあります。

それは自分の心です。

心は自分の人生と言い換えても良いかも知れません。

過労のあまり鬱になり自ら命を絶ってしまう人、親や配偶者のためだけの人生で自分の人生というものが無くなっている人、何かの依存症になりお金と健康な体を奪われる人。

それがために自分の人生を空費する人は数え切れないほどです。

 

アドルフに告ぐ手塚治虫

 

ではどうするか?

もう一度学びを再開することです。

もう一度自分の心の声に従って、読みたい本を読み、行きたい場所に行き、

会いたい人に会いに行き、話したいことを話すということです。 

 

心の声は普段水面下に隠れているため容易には聞こえないかも知れません。

ですが時間をかけて取り組む価値があります。

学びは他者から押しつけられたり、与えられたりした出来合いのものではなく

自分で獲得したものでなければいけません。

小さな成果であれ、自ら学び得たものであればそれはあなたの人生そのものですから、

それはお金とは全く比較にならない至上の価値を持ちます。

 

これが「なぜ勉強をするのか?」という問いに対しての

私なりの答えです。 

 

以上です。それではまた。